クライミングの哲学:なぜ人は岩を登るのか?






シーシュポスの神話」をご存知だろうか?
1955年フランスの小説家:アルベール・カミュによって書かれた随筆だ。




神々によって罰を受けた王シーシュポスが、
大岩を山頂まで運ぶのだが、山頂まで運び終えると決まって
岩が転がり落ちていってしまう。
なんど繰り返しても同じ結果という不条理な内容である。

外岩を登っていると、ふとシーシュポスのような気分になることがある。
足繁く同じ岩場に通い、同じ課題に取り組むものの、
あと一歩、マントルを返せば完登というところで何度も落ちてしまったりする。
ムーブをすべて分解して「明日がんばろう」と思ったら、
翌日雨で登れない。。。なんてことはよくある話だ。

それはまるで、不条理な何か対抗する王シーシュポスそのもののようだ。それでもクライマーは何かに取り憑かれたように、再びシューズを履きチョークバックに手をつっこむのだ。「ラスト1回」といいながら。

なぜ岩を登るのか?」と聞かれて、あなたはなんと答えるだろうか?
昔、小山田大氏がNHKの番組で同様の質問を受けていて、
この年にもなって岩を登っているの、恥ずかしいんですよ
と答えているのを聞いて、なんだかすっと腑に落ちた。

まるで砂場で遊んでいて、うっかり家に帰るのが遅くなった
子供のような素直な答えだった。
いや、子供なら恥ずかしいとは思わないから、大人か。
大人が岩場で遊んで、楽しくてやめられない。
そしてうっかり帰りそびれてしまうんだと思う。
そういうことなんだろう。

いまでこそ、コンペティションや様々なブランドがスポンサードするクライマーが沢山いて、競い合う「スポーツ」としての顔を持つクライミングだが、外岩の完登は未だに自己申告制だし、誰かが記録を管理しているわけでもない。
こんなに緩いスポーツはあまりないんじゃないかと思う。
クライミングがスケートボードとかBMXと同じエクストリーム系スポーツにカテゴライズされている理由もよく分かる。

一方で級/段のグレード制や、その哲学的背景を鑑みると、
やはり武道としての資質を持つスポーツでもあると思う。

Eastern Mountain Sportsが数ヶ月に及び、岩場のクライマー数十人に
なぜクライミングするの?Why do you climb?」と質問したビデオがある。

「楽しいから」「自由になれるから」「夢中だから」「好きだから」「薬みたいなもの」「強迫観念みたいなもの」「それが私の人生だから」
と答える人がいる一方、少し答えに困ってしまう人もいる。


最後に登場するショートカットの女性が
クライミングしている時だけ、私の頭の中は”からっぽで自由”だから
という答えが印象的だった。

確かに、登ることに集中している時、
外界から切り離され、周りの音も聞こえなくなって、
自分の呼吸だけが聞こえて来るような瞬間がある。

それは荒いやり方かもしれないけれども、
一種の座禅を組むようなのだと思う。
クライミングを通して、精神が肉体に吸収されいく。

私はなんと答えるのだろうか?
カミュの「異邦人」にちなんで

「太陽がまぶしいから」とでも答えてみることにしよう。