クライミングは現代の修験道か


Photo by 唐山健志郎

白装束に白い足袋、頭には黒い小さな帽子をかぶり、山を登る人々。金輪のついた杖を鳴らし、時には山々に木霊する法螺貝を吹く。彼らは、山伏(やまぶし)と呼ばれる修験者である。




岩場に分け入って行くクライマーを見ていると、どこかこの修験者とかぶる印象がある。背負った大きなクラッシュパッド、杖のようなブラシ、ニット帽。。。岩を仰ぎ、ムーブのおさらいをするクライマーのその姿は、まるで岩場を信仰する修験者のようである。ムーブの解析がおわり、全てがつながった時に訪れる静寂、まさしく悟りの境地に近いものがあるのではないだろうか?

ということで、修験道(しゅげんどう)っていったいなんなのだろうか?ということを、クライミングを通して少し考えてみたいと思う。日本古来の山岳信仰と宗教(仏教・密教など)、それらとクライミングの繋がりを少しでも考えることにより、近年各地の岩場で問題になりつつあるクライマーのモラル問題を解消する手助けにはなれないだろうか。

修験者とは、修験道の実践者。すなわち、日本各地の霊山にて山籠りを行い、厳しい修行を通して、悟りを得、霊力を身につけることを目的とした修行の道に入る者のことを指す。山に伏して修行する姿から、山伏(やまぶし)とも呼ばれる。日本古来の山岳信仰に仏教が取り入れられた宗教で、修験宗とも呼ばれる。修験僧としてよく知られているのは、岩場にこもって仏像を彫り続けた円空

いっそのこと、岩に伏せるクライマーを岩伏(いわぶし)と呼んでみても面白いかもしれない。。。





修験道の始まりは奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)、又の名を役小角(えんのおづの)によると言い伝えられている。天河大弁財天社大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。「日本霊異記」や「続日本紀」に役行者に関する話が記録されている。

世界一危険な国宝として知られる鳥取県三朝町にある三徳山三仏寺の奥院投入堂(なげいれどう)」は、この役行者が法力で仏堂を岩場に投げ入れたという言い伝えられている。岩肌にそって建てられた仏堂はただただ美しく、幽玄である。どうやって建てられたかは定かではないが、大昔のクライミングに似た技術(忍術?)を持って建てられたのだろう、ということは容易に想像がつく。



Photo by David.Monniaux


この役行者、実は忍者のルーツであるとも言われている。その名残として、伊賀の街には数多くの役行者像が祀られているそうだ。また、修験者が用いる九字護身法を忍者も使うため、少なからず関連性があることは明白である。クライミングと忍術に関する記事は、また別の機会に書いてみたいと思う。

修験道、実際にはどのような修行を行うのだろうか。峰々に分け入り、山や岩、滝、樹木、動物などの自然の霊力を養うというものがあり、これを「入峰(にゅうぶ)修行」という。詳しくは、木の実のみを食べる「木食行」、霊の集まる洞窟にこもる「窟篭もり」、峰々、岩場を歩いてわたる修行「抖櫢(とそう)」、不眠不動、滝に打たれる「水行」、裸足で火の上を歩く「火生三昧」など様々なものがある。入峰修行を通し、死を擬似体験し、罪を滅ぼし、新たに生まれ変わるという「擬死再生」の考えが根底にある。その他にも、1000日間48キロの山中を毎日歩き続ける「千日回峰行」、即身仏化をめざす「土中入定」、そして「捨身」にまで至る修行がある。とにかく過酷な荒行であるということが分かる。幕末から明治時代にかけて活躍した修験者の林 実利(はやしじつかが)は、その修験の極みとして那智滝から座禅を組んだまま滝壺に捨身入定している。


北斎による役行者の図、強そうな2匹の鬼を連れている。。。

と、ここまでいってしまうとさすがに仏の道に通じてしまうが、必ずしもその境地に達する必要があるわけではないし、やって出来るものでもない。明治時代には修験者は17万人近くいたと言われており、修験道の精神を理解し、その修行の道に身を置くものといった意味が強く、その実体は民衆宗教・信仰なのである。現代でも多くの霊山で修験道は行われており、とくに数日間峰々を「抖櫢(とそう)」し、岩場を登り、命綱一本で岩場から吊るされたりするものが多い。1日修験道体験を行っているお寺なども各地に存在する。ここまで書いている以上、一度やってみなくては。


寒々しい冬の岩場に分け入り、凍えそうな岩にしがみつき、焚火で暖をとり、たった一つのムーブを成功させるために足しげく何度も岩場に通う。テントを張って夜を過ごし、木の実(ナッツ)をむさぼり食う。一本のロープとビレイヤーに命をあづけ、自らの限界に挑む。それは決して修験道ほどの荒行では無いが、どこか通底する精神のようなものすら感じる。クライミングは単にスポーツとしての側面だけでなく、山岳信仰、はたまた宗教的価値観感にもつながる文化だと思う。みんなでワイワイとレジャーとして行うのも面白いが、一人静かに岩と対峙する、そんな時間があるからこそ、クライマーとして人間として成長することができるのかもしれ無い。そうして初めて、クライミングは1つの修行の形となるのである。